写真とデミウルゴス

ここのところデジタル一眼を構える機会が多く、ふと写真について考えてみる気になった。

写真の被写体は必ず過去の存在の写しである。写真を撮る行為とは現在の写しを作成するということに他ならず、とてつもなくデミウルゴス(※プラトンが『ティマイオス』で述べている世界の創造者)的な営みなのではあるまいか。もちろん写真を撮影する行為には、デミウルゴスの作業とは次の点で大きな違いがある。デミウルゴスの作品は現実に動き出す存在である。しかるに写真は、その作品の本体たる被写体自身ではなくして、写真を見つめる人—つまり外部の存在—の想像力を動かすのである。事態は撮影者がデミウルゴスであっても変わらない。一度写真が撮影されたなら、今度はデミウルゴス自身が写真の観察者とならざるを得ないのであるから。

記録としての写真。記録とは過去の事象をなんらかの形で留めるもの。ものによっては学問的な価値があるかもしれないし、個人的なスナップ写真の場合には本人の主観に大きく関わることであろう。そして学問的云々以前に、より想像力が羽ばたく目的で撮影されるのが個人的なスナップ写真なのではないか。

現代のように写真を撮ることがポピュラーになる以前には、写真には不吉な雰囲気が漂っていたのかもしれない。私自身、子どもの頃に写真を撮ると魂が抜かれるといったような素朴な噂に触れたことがあるし、実際今も、冗談混じりでそういった内容を会話に盛り込むことがある。そうした他愛もない噂話は、写真という技術に対する無知の時代がもたらした迷信だと断ずることもできようが、必ずしも写真に対する不吉な印象を説明しきれるものではないのではないか。不吉な印象は、写真を撮るという行為そのものにあるように思われるのだ。

戦場カメラマンは実際に戦闘を行うのではなく、各々が考える、戦場において撮影するにふさわしい被写体を求める。彼らが自身の仕事に忠実であるならば、あるいは目の前で起こる暴動を止めようとするより、むしろその荒々しい様子をカメラに収めようとするのではなかろうか。すなわち撮影者は、眼前にある光景に決して参与しない存在なのである。

極端な表現をするなら、撮影者は擬似的な世界外存在に他ならない。彼らは世界の出来事に関わろうとせず、むしろ彼が主題としたい出来事に距離を置き外部から観察する。そうして撮影された写真は、撮影された瞬間過去の出来事の証言となり、時間軸の外側に放り出される。印刷紙の劣化等を考えなくても良くなったデジタル化された現代においてはますますその傾向が強まっているのではないか。

写真を撮ろうとする意識の背景には、プラトン的なイデアへの憧れがあるのではないか。写真として切り取られた人や景色や出来事、あるいはその全ての持つ「イメージ」は一瞬にして今ここにある世界から放り出される。イデアという永遠不変な存在を理想とするならば、変化する世の中の一瞬を切り取り時間軸の外側に放り投げれば良い。我々は過去のスナップ写真によって眼前にはない過ぎ去った思い出に心慰められたりする。それこそが個人のスナップにおける各人の想像力を羽ばたかせる作用なのである。

プラトンの芸術論からすれば、写真そのものは「イデアの写し」の「そのまた写し」ということになり価値が低いものと見做されてしまうであろう。ただし、写真が過去への郷愁を誘うという図式からプラトンのいうイデア界への憧れの気持ちを想起したとして、あながち的外れではないであろう。その流れで写真の効用を考えるなら、観賞者がいかにイデアに向かって想像力を羽ばたかせられるかという点に写真の価値が見出されてくると思われる。

プラトンにおけるエロスの本質はイデア界への憧れ…エロスの動因は美であるという定式からするに、以上は写真の芸術的側面に触れる内容でもある。マイケル・パウエルの映画(『血を吸うカメラ』)ではカメラを巡る性的妄想が描かれているが、それは倒錯であれ、写真を撮影するということの本質を突いている一面もあるのではないか。鑑賞者自身の問題は置いておいて、ひとまず芸術的な写真とは、撮影者が意識しているいないに関わらず、なんらかの形でイデアに眼を向けさせる効用があるものを言うのかもしれない。

以上を考えつつ、デミウルゴスや世界の観察者というキーワードから、写真とグノーシスとの関連性が閃いてきたが、それについてはもう少し考えがまとまってから述べたいと思う。

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