グノーシス主義と月光

本日、録画していたTRICK最終話を観た際に流れていた鬼束ちひろさんの「月光」に触発されての投稿です。

この唄は、初めて聴いた時からグノーシス主義の香りが濃厚で好きでした。「I am GOD'CHILD」というユダヤ・キリスト教が念頭に置かれているフレーズから始まりつつ、「この腐敗した世界に堕とされた」と続く歌詞は容易にグノーシス主義思想を想起させます。

グノーシスという言葉に初めて触れる人のために…グノーシスとは「知識」を表すギリシャ語です。ただし知識といっても日常用いられる知識という語とはかなり質が異なります。一般に知識というと「言葉」を手段として蓄えられるもの。しかしグノーシスとは言語化しえない(そして言語による知識より上位の)知を意味します。このように述べると、一挙にオカルト臭が漂ってしまいますし、事実オカルトに分類される潮流でグノーシス主義の影響を受けているものは多々あります。

グノーシス主義の神話では、ユダヤ・キリスト教における神が世界を創造したのではなく、神によって創造された存在(デミウルゴス)が今我々が住んでいる世界を創造したとされます。我々の世界には悪と呼ぶべき現象が多々あるといえるでしょう。そうした悪が存在する責任を、この世の創造者であるデミウルゴスに帰すのです。全知全能、すなわち全てを善に収めることが可能である神という信仰箇条と現実にある悪の問題とのぶつかり合いが生んだ思想といえるでしょう。

この世を悪とみなし、そこからの脱却を目指すグノーシス主義は、日常に苦悩する我々が共感出来うる要素を秘めているのです。月光において「鎖」や「効かない薬」と表現されているのは悪の象徴。したがって世界に目を向ける限り「どこにも居場所なんてない」という感覚が生まれてきます。しかしながら、我々自身も踏まえ悪にまみれているこの世界から脱却すべく、内なる光に目を向けるべし─それこそグノーシス主義の本質なのではないでしょうか。外を見ると救いがない、ただし内側に潜りこめば…

私自身は外側も捨てたものではないと感じていますが、グノーシス主義に則り世の中を見渡してみたならば、溜息を禁じえません。そして、内側にもまた闇があると言わずに負えない現実があります(そもそも内と外の区別が難しいとも言えます)。

「最後になど手を伸ばさないで 貴方なら救い出して」

このフレーズにでてくる貴方とは一体どういった存在なのでしょう。単純に恋人ともいえなそうですし、デミウルゴスを超えた神とも捉えづらい…などなど考えてしまいました。私は、世の中の良い面だけを見る「臭いものには蓋」系の考えには拒否反応を示しますが、グノーシス主義の世界観には本質的に引かれるものがあります。その理由は、グノーシス主義に関してよく言われる現世否定の側面やエリート主義の側面にあるわけではないようです。グノーシス主義を表面的にとらえれば現世からの逃避のみを述べているように見え、したがって歴史的にもありましたが、極端な禁欲や極端な放埓に向かわせてしまいます。しかし敢えて言うならば、グノーシス主義には、それにとどまらない闇を通ることによってのみみえてくる光が秘められているような気がします。その光がもたらすものこそがグノーシスそのものなのでしょう。

このような世界観を「月光」という言葉でまとめ上げたのは、鬼束さんのアーティストとしての秀逸な感性によるものだと思います。月について述べたいことは色々あるのですが、それはまた後程。

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